2010年9月30日木曜日

川崎区準倫理法人会第292回MS報告

9月24日 本日は長野県飯田市倫理法人会 相談役 福島 秀治 氏 に「気力と体力から仕事が生まれる~自己の使命に徹する~パートI」のテーマで講話をして頂きました。
朝比奈が報告いたします。


進行:ランジット・カーロン 専任幹事

朝の挨拶:横田 真司 幹事

会長挨拶:織戸 薫己 会長
歳をとっても疲れない。いつまでも健康でいられる事は素晴しい事です。

辞令交付:平成23年度、皆さん、それぞれの役をしっかり果たしてください。
講話:長野県飯田市倫理法人会 相談役 福島 秀治 氏 テーマ「気力と体力から仕事が生まれる~自己の使命に徹する~パートI」
父は政治家、家は貧乏、兄弟は9人。畑も持たず。日々の食材は近くの野山から得て食欲を満たしていた。麦飯が臭くて食べられず体は弱かった。
高校には行かせてもらえず職業補導所という職業訓練校に通う事になり、通学電車での他の同級生たちが高校の制服を着ているのに自分は中学の制服をそのまま着ており恥ずかしく、屈辱を味わった。今に見ていろ。いつかお前らを見返してやると決意した。
学校の先生から「一生満足のいく物は絶対出来ない」との話を聞いて衝撃を受けた。
学校は1年間だが他の生徒が帰っても残って物作りを学び技術を磨いた、その内食べないと体が持たなくなったので自然と食欲も増し、卒業する頃には見違えるように丈夫になっていた。
木工会社に就職したが、自宅の狭い部屋を作業所にし自分でも家具作りをした。
そのうち父母が立て続けに入院。兄姉は就職で家を出ていたので自分が仕事しながら両親の看病もした。1日4~5時間睡眠で14年間続いた。
21歳で独立。機械を買うお金も無いので引き割り鋸で大きな材料を切って家具作りをしていた。
少しずつ事業を拡大し、廃材を貰って工場を建て、知り合いから中古の機械を譲ってもらい体制が整っていった。
しかし大手の家具メーカが進出して大量生産、低価格を武器に同業他社は次々駆逐されていった。
そこで次なる商品は何かと考え、ステンレス流し台に目をつけた。当時はトタン製かタイル張りが主流でステンレスは最新だった。
オーダーメードで結構売れたのだが、それも他社がカタログを作ってセールスし始め自社にカタログと言うものが無い事が商機を逸している事に気付かされた。
それからは順調になったが、今度はお客様から家具のオーダーも頂くようになったので、何の将来計画も立てずに社員に店舗を持つ決意を伝えた。その時は消防団の団長にもなっており、妻もちょうど妊娠していた。なんとも多忙な日々が続いた。
店舗を建てるための資金を銀行に融資してもらったが実績も信用も無いので満足な融資は得られなかった。建設会社に無理を承知でその資金でやってもらうよう頼み込んだ。営業は赤字受注は無理だと
突っぱねたがしつこく食い下がっていると社長から一言、「そこまで言っているんならやってやれ」と赤字なのに仕事を請けてもらえた。
折りしも昭和48年のオイルショックの直前だった。その後だったら資材も高騰して絶対無理だった。運が味方になってくれた。
店の開店に当たって小売の経験はまったく無かったので仕入れも店の陳列も販売の仕方も在庫管理もまともに出来ず、オープンして大繁盛だったが納品が遅れたり、在庫不足だったりクレームの処理に追われた。多くの失敗から小売のノウハウを掴み取っていった。
多くの無理がたたり33歳の時、狭心症で倒れこのままの生き方じゃ絶対死ぬと感じた。
それからは健康管理のためマラソンをしようと決意。以後33年間、日本各地、海外と仕事で回った先の土地で朝マラソンをしたのでそこの土地をよく知る事ができた。
あるとき娘がバスの陰から飛び出し車にはねられる事故にあったが、奇跡的に軽傷で済んだ。
それは鞄に入れていた弁当箱がつぶれたお陰で衝撃が軽く済んだからだった。
家では事あるごとに家族で仏壇に感謝の言葉を伝えていたので、先祖が娘を守ってくれたのだと思った。
また墓参りも時間を作って欠かさず行っている。先祖、親への感謝が原点。
「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ」
サミュエル・ウルマン

記念品贈呈:庄村 昌子幹事
連絡事項:中島 陽一 事務長 
本朝の出席は23社24名でした

誓いの言葉:木村 叔子 幹事
食事の挨拶:宮舘 眞 副事務長

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